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2011年2月10日 (木)

故村山 聖九段・幼少時代 (その3)

写真は無邪気に「アッカンベー」をする聖。しかし、この頃には病魔は確実に忍び寄っていた。                                                                                      

Photo○母トミ子の話。

「昭和49年6月、4歳の終わり頃のことです。激しい高熱と足の痺れを訴えましたので解熱剤を飲ませて寝かせました。近所のお医者さんの話では まあ風邪だろうということで、元気な子だったので 皆 油断していたんです。

風邪は一向によくならず、だんだん顔にむくみが出てきました。これは何かおかしいと思い、その時初めて広島市民病院へ連れて行ったのです。最初に熱を出した日から一ヶ月が過ぎていました。病院の先生に ネフローゼ と病名を初めて聞かされました。」

「その時先生に“お母さん、これは大変ですよ。大変な病気にさせちゃったですね ”と言われたのですが、その“させちゃった”という言葉が、それ以来ずーと頭から離れたことはありません。」

○最初の入院は、5歳になった翌月の7月から12月まで約5ヶ月間に及んだ。

そして、それ以来、ネフローゼが聖とその家族に長い長い苦難の道を歩ませることとなる。

                      母トミ子の話は、「将棋世界」’99年3月号 村山 聖の想い出 より抄出。

☆尚、今日(2月10日)は、この時より約8年ののちに聖が運命的な出会いをし、聖のその後の長い将棋人生に大きな影響を与え続けた聖の師匠森信雄七段59歳の誕生日なのです。モリノブさん おめでとう!  弥吉 拝

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故村山聖九段」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。

迫りくる病魔と、結びつけるのがとてもできないような、子供らしい楽しそうなお写真ですね。
お母様のお話と合わせて読むと・・・なんだかお母様のお気持ちに触れるようで
深い愛情と切なさを感じました。

私がブログを書いている世界は、病気や不幸な出来事を、受けざるを得ないサダメ・・・のように、当たり前に語る方が多いですが
改めて、それは違うと感じます。

村山さんは、それをとても深く感じ取っていらっしゃったと思わせるお言葉を
とても多く遺していらっしゃいますよね。


どの子ども時代のお写真を拝見しても、純粋でやんちゃで生き生きとして、ほんとうに子供らしく
ご家族の皆様が、どんなに愛しく思っていらっしゃるか。
他人の私でも、思わずほっぺをつつきたくなります。

心の元気の出るお写真拝見できて、嬉しかったです。

ありがとうございました。

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