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2011年6月20日 (月)

本因坊道策の生誕地を訪ねて -その2-

 

〇 6月11日(土)は、朝 大阪を出発する時土砂降りだった

 が次第に明るくなり、仁摩町(島根県)に着く頃には青空が

 広がった。昨年6月に因島(広島県)に秀策の墓参をした時

 も雨模様のあと好天になった。


  道策、秀策の両先生とも、囲碁をこよなく愛するものを

 温かく迎へるべく気を使って下さったのだらう。

〇 道策の生家を見学し、長屋門や広い中庭をはさんで建つ

 母屋の重厚さに甚く感心したのち、近くの丘にある墓所と

 顕彰碑に向かった。

 

  写真下: 現当主 山崎尚志氏による顕彰碑改設の碑。

Photo_6

 

 

 写真下: 左から井上因碩道砂(道策の実弟)、道策、山崎家

     開祖善右衛門の碑。
                               (平成13年改設建立の新しい碑)

Photo_7

 

 下の写真: 改設前の古い碑。(以前は近くの菩提寺満行寺

       の鐘楼脇にあった由)

Photo_2

 

 写真下: 兄弟である道策(右まえ)、因碩(左うしろ)の墓碑。

Photo_8

  
尚、道策の墓所は、他に東京(本妙寺)、京都(寂光寺)にも

 あるさうだ。

 

平成25年5月追記: 山崎家当主 山崎尚志氏は、平成25年

            5月9日に死去された)

 

 

〇 地元が生んだ幕末の名棋士 岸本左一郎の顕彰碑を

 訪ねて。

  翌朝(6月12日)、道策の生家から約3km程の

 天河内にあるといふ岸本左一郎顕彰碑を捜し訪ねた。

   岸本左一郎は文政5年(1822)に石見銀山の

  ある大森に生れた。幼くして俊才。

   天保8年(1837)には江戸へ出て本因坊丈和

  の門に入った。そして同年遅れて入門してきた のち

  の秀策を知ることとなる。岸本は家の都合で一時帰

  郷し、地元で囲碁普及活動に尽力するが、秀策と

  はその後も様々に親交を重ねた。

 

  浄土真宗満行寺の境内を少し外れた、山道脇の笹竹

 の中に隠れて見過ごしさうな案内碑を見つけた。よく

 見ると「岸本橘堂先生之碑」と読めた。付近を捜して

 みると裏の小高い雑木林の中にそれはあった。

  下の写真が、岸本左一郎の顕彰碑。

 本因坊秀和が万延元年(1860)7月に碑文を書い

 てゐる。Photo_4

Photo_9

 

〇 小雨の降りかけた暗い森の中なので碑文の文字が見え

 づかった。囲碁史ではよく知られてゐるが、地元では

 すっかり忘れ去られてゐるやうだ。

  安政5年(1858)病ひをえて37歳で早世した石生んだ

 名棋士の碑をもう少し人の目にふれ易い所移すなど

 心配りが欲しい。

 

                      をはり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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