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     村山聖について、彼の師匠森信雄七段は後年 彼について こう語った。「私が村山聖を好きなのは、将棋にひたむきだったことと、病気のことも含めて一切グチを言わなかったことである。無念さや切なさ、遣り切れなさ、口惜しさ..その思いをすべて黙って将棋にぶっつけていたような気がする。」    聖は幼時より腎臓に重い疾患を持っており、生きること自体が闘いであった。いつまで生きられるかという思いを心の片隅に置き、名人を目指して指す彼の将棋は その必死さ において尋常なものではなかった。

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2014年8月10日 (日)

「村山聖 逝去」の報が東京に伝へられた時。

  このエントリーは、小生のメル友で 絶大な村山ファンでも

 あるTさんと、H25年8月11日に交はしたメール文を

 私信部分を除いて転載したもの。

 

 

〇 早速のこと乍、本題。

 

 15年前の8月10日、村山の死が東京の将棋連盟に伝へ

 れました。

  千駄ヶ谷の将棋会館ではこの日、竜王戦準々決勝 羽生vs

 郷田戦があり、読売新聞の観戦記者西條耕一さんの言に

 よると、会館に来合せてゐた棋士の何れもが沈鬱な表情で

 あった由。

 

   -以下、近代将棋1998年11月号の記事よりー

 

〇(西條記者が) 特別対局室に入ると、上座の羽生が どうも

 といふ顔をした。やはり昼休みに聞いたらしく、常にポーカー

 フェースの彼でも、やはりどこか沈んだ表情だった。

 

  私も ぽおっとしてゐるうちに 夕方になり、控室で追悼原稿

 を書き始めた。机を挟んで羽生、郷田が並んで出前の夕食を

 食べてゐた。他に もう対局はない。二人とも黙々と箸でかき

 込んでゐた。郷田は10分もかからず食べ終へ控室から出

 た。

 

〇 羽生に村山将棋について聞いた。

 

 「攻めが鋭くて、勝負カンが冴えてゐる将棋。もし健康なら

 タイトルをいくつかとったでせう」と答へてくれた。

 「もし村山さんが健康でも、羽生さんは七冠を取れましたか」

 とちょっと意地悪な質問をすると、(羽生は)少し考へて、

 「もし健康なら と同情されること自体 彼は嫌だったでせう

 ね」とだけ言った。

 

  この日の将棋は両者とも冴えが見られなかった。羽生優勢

 の終盤だったが、両者ともに不可解な手を指し 最後は羽生

 が勝った。余程ショックが大きかったのだらう。

                     -以下、略ー

 

〇 西條記者は翌日(11日)の夜、羽生が広島の村山家を

 弔問したことを知り、次の様に書いた。

 

 -(11日)昼前に羽生が弔問に訪れたといふ。昨夜

 (羽生が)帰宅したのは午前0時過ぎだ。既に密葬も終はり

 いつ行っても状況は変はらない。そこを朝一番の飛行機で

 挨拶に行ったのだ。村山の自宅(広島)は 東京から急いで

 も5時間以上かかる。

  羽生はその翌日にも対局があったが、それでも行った。

 すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。

 羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出てゐるだけだ。

 羽生の人生には妥協といふ文字はないのだらう。

  七冠取れるわけだ。--

 

 

 

 

 

 

〇 小生(弥吉)は、西條記者の一連の文章を読んで、

 どうもしっくり来ない心の不満があった。

 

  彼は、村山とは特に親密な関係にないが、羽生とも

 仕事を通じて以上の 私的な交はりはなかったのでは

 ないか。彼は、村山の死について、郷田や居合はせた

 佐藤(名人)にも質問してゐるが、あまり良い返事を

 もらってゐない。

  羽生や郷田や佐藤が村山の急逝に如何にショックを

 受けてゐるかを深刻に理解しないまま、不躾な質問を

 したからだらう。

 

 

 

〇 ところで、村山と羽生の公式戦での対戦成績は村山

 の6勝7敗でした(H元~H10)。

 

  最後の対戦(H10.2.28 NHK杯決勝戦)は、

 最終盤に村山の大ポカがあり、羽生が勝ちを拾った。

 (NHK杯は、全国の将棋ファンがTVで観てゐる注目

 の棋戦であり、村山にとっては、次期(4月以降)を

 1年間休む決意をした後の対戦であっただけに勝ちた

 かったことだらう。)

 

Photo

 

〇 ほゞ互角の対戦相手だった村山に対して、羽生は次

 の様に言ってゐます。

 

  「村山将棋の最大の特長は、感覚の鋭さ、直観的

 センスの良さ」だと。

 

  「村山さんは、いつも全力を尽くして いい将棋を

 指したと思ひます。言葉だけじゃなく、本当に命がけ

 で将棋を指してゐると、いつも感じてゐました。」

 と。

 

  「彼は本物の将棋指しだった。」 とも。

 

  そして、追悼集会でのスピーチで、

 

  「村山さんと同時代で ともに戦へたことを私は

  心から光栄に思ひます。」 と。

 

 

〇 小生は、羽生さんが深夜に及ぶ対戦があったにも

 拘らず、翌朝一番の飛行機で弔問に行った行動を忖度

 するに・・・

  他の棋士にはない村山への畏敬、村山との接触(桂

 の間での検討、福島食堂での楽しいひととき など)

 を通じて得た村山の純粋な心への敬愛、これら村山に

 対して持ってゐた深い畏敬と敬愛の念が、一刻も早く

 村山の位牌(魂)に手を合はせ、感謝の念を伝へたい

 といふ衝動を抑へられなかったのだらうと思ひます。

 

 

〇 村山も羽生さんに対しては特別な存在として深い

 畏敬の念を持ち続けてゐました。

 

  だからこそ、亡くなる前の4月25日、体調が悪い

 にも拘らず、広島へ来てゐる羽生さんに会ひに行った

 のです。その時、羽生さんの目には、村山が楽しさう

 だったと映ったのです。

  それはその筈です。村山にとって、羽生さんと会っ

 て共に将棋の検討をしてゐる時間ほど至福の時は

 なかったでせうから。

 

 

〇 村山は疾風の如く、29歳で夭折しましたが、その

 短い生涯を羽生さんのやうな真摯な人と心を交流させ、

 ともに将棋の道に生きられたことは幸せだったのでは

 ないでせうか。

 

 メル友Tさんへ。

 

   固苦しい文章になりました。でも、途中から胸が

 一杯になり乍、書いた文章なので悪しからず、ご寛容

 のほど願ひ上げます。

 

   酷暑の砌、お身体御慈愛専一を祈り上げます。        

 

                    弥吉 拝

 

                    をはり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント

弥吉様。

お久しぶりです。
今更のコメントですが、明けましておめでとうございます。
ブログを拝見しましたがとても興味深い考察だと思います。
彼は羽生名人に大変な敬意と好意を抱いてましたから。

ところで糸谷竜王誕生には、大変驚きました。

きっと村山聖九段も泉下で喜んでいることでしょう♪

正樹さんへ

拝復 謹賀新年

早々のコメント有難うございました。

小生、毎年秋に福島界隈を徘徊していたのですが、

昨年は寄る年波に勝てず、行かずに終わりました。

村山さんに関することなら、何でも教えて下さい。


糸谷さんは、村山さんに劣らず個性的で逸話の多い

人物です。モリノブ一門は多彩ですね。

両者に関する、文章と写真を別便でお送りしますので、

ご笑覧下さい。  草々    弥吉 拝

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