「村山聖 逝去」の報が東京に伝へられた時。
このエントリーは、小生のメル友で 絶大な村山ファンでも
あるTさんと、H25年8月11日に交はしたメール文を
私信部分を除いて転載したもの。
・
〇 早速のこと乍、本題。
15年前の8月10日、村山の死が東京の将棋連盟に伝へら
れました。
千駄ヶ谷の将棋会館ではこの日、竜王戦準々決勝 羽生vs
郷田戦があり、読売新聞の観戦記者西條耕一さんの言に
よると、会館に来合せてゐた棋士の何れもが沈鬱な表情で
あった由。
-以下、近代将棋1998年11月号の記事よりー
〇(西條記者が) 特別対局室に入ると、上座の羽生が どうも
といふ顔をした。やはり昼休みに聞いたらしく、常にポーカー
フェースの彼でも、やはりどこか沈んだ表情だった。
私も ぽおっとしてゐるうちに 夕方になり、控室で追悼原稿
を書き始めた。机を挟んで羽生、郷田が並んで出前の夕食を
食べてゐた。他に もう対局はない。二人とも黙々と箸でかき
込んでゐた。郷田は10分もかからず食べ終へ控室から出
た。
〇 羽生に村山将棋について聞いた。
「攻めが鋭くて、勝負カンが冴えてゐる将棋。もし健康なら
タイトルをいくつかとったでせう」と答へてくれた。
「もし村山さんが健康でも、羽生さんは七冠を取れましたか」
とちょっと意地悪な質問をすると、(羽生は)少し考へて、
「もし健康なら と同情されること自体 彼は嫌だったでせう
ね」とだけ言った。
この日の将棋は両者とも冴えが見られなかった。羽生優勢
の終盤だったが、両者ともに不可解な手を指し 最後は羽生
が勝った。余程ショックが大きかったのだらう。
-以下、略ー
〇 西條記者は翌日(11日)の夜、羽生が広島の村山家を
弔問したことを知り、次の様に書いた。
-(11日)昼前に羽生が弔問に訪れたといふ。昨夜
(羽生が)帰宅したのは午前0時過ぎだ。既に密葬も終はり
いつ行っても状況は変はらない。そこを朝一番の飛行機で
挨拶に行ったのだ。村山の自宅(広島)は 東京から急いで
も5時間以上かかる。
羽生はその翌日にも対局があったが、それでも行った。
すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。
羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出てゐるだけだ。
羽生の人生には妥協といふ文字はないのだらう。
七冠取れるわけだ。--
・
〇 小生(弥吉)は、西條記者の一連の文章を読んで、
どうもしっくり来ない心の不満があった。
彼は、村山とは特に親密な関係にないが、羽生とも
仕事を通じて以上の 私的な交はりはなかったのでは
ないか。彼は、村山の死について、郷田や居合はせた
佐藤(名人)にも質問してゐるが、あまり良い返事を
もらってゐない。
羽生や郷田や佐藤が村山の急逝に如何にショックを
受けてゐるかを深刻に理解しないまま、不躾な質問を
したからだらう。
〇 ところで、村山と羽生の公式戦での対戦成績は村山
の6勝7敗でした(H元~H10)。
最後の対戦(H10.2.28 NHK杯決勝戦)は、
最終盤に村山の大ポカがあり、羽生が勝ちを拾った。
(NHK杯は、全国の将棋ファンがTVで観てゐる注目
の棋戦であり、村山にとっては、次期(4月以降)を
1年間休む決意をした後の対戦であっただけに勝ちた
かったことだらう。)
〇 ほゞ互角の対戦相手だった村山に対して、羽生は次
の様に言ってゐます。
「村山将棋の最大の特長は、感覚の鋭さ、直観的
センスの良さ」だと。
「村山さんは、いつも全力を尽くして いい将棋を
指したと思ひます。言葉だけじゃなく、本当に命がけ
で将棋を指してゐると、いつも感じてゐました。」
と。
「彼は本物の将棋指しだった。」 とも。
そして、追悼集会でのスピーチで、
「村山さんと同時代で ともに戦へたことを私は
心から光栄に思ひます。」 と。
〇 小生は、羽生さんが深夜に及ぶ対戦があったにも
拘らず、翌朝一番の飛行機で弔問に行った行動を忖度
するに・・・
他の棋士にはない村山への畏敬、村山との接触(桂
の間での検討、福島食堂での楽しいひととき など)
を通じて得た村山の純粋な心への敬愛、これら村山に
対して持ってゐた深い畏敬と敬愛の念が、一刻も早く
村山の位牌(魂)に手を合はせ、感謝の念を伝へたい
といふ衝動を抑へられなかったのだらうと思ひます。
〇 村山も羽生さんに対しては特別な存在として深い
畏敬の念を持ち続けてゐました。
だからこそ、亡くなる前の4月25日、体調が悪い
にも拘らず、広島へ来てゐる羽生さんに会ひに行った
のです。その時、羽生さんの目には、村山が楽しさう
だったと映ったのです。
それはその筈です。村山にとって、羽生さんと会っ
て共に将棋の検討をしてゐる時間ほど至福の時は
なかったでせうから。
〇 村山は疾風の如く、29歳で夭折しましたが、その
短い生涯を羽生さんのやうな真摯な人と心を交流させ、
ともに将棋の道に生きられたことは幸せだったのでは
ないでせうか。
・
メル友Tさんへ。
固苦しい文章になりました。でも、途中から胸が
一杯になり乍、書いた文章なので悪しからず、ご寛容
のほど願ひ上げます。
酷暑の砌、お身体御慈愛専一を祈り上げます。
弥吉 拝
をはり
・
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弥吉様。
お久しぶりです。
今更のコメントですが、明けましておめでとうございます。
ブログを拝見しましたがとても興味深い考察だと思います。
彼は羽生名人に大変な敬意と好意を抱いてましたから。
ところで糸谷竜王誕生には、大変驚きました。
きっと村山聖九段も泉下で喜んでいることでしょう♪
投稿: 正樹 | 2015年1月 5日 (月) 19時18分
正樹さんへ
拝復 謹賀新年
早々のコメント有難うございました。
小生、毎年秋に福島界隈を徘徊していたのですが、
昨年は寄る年波に勝てず、行かずに終わりました。
村山さんに関することなら、何でも教えて下さい。
糸谷さんは、村山さんに劣らず個性的で逸話の多い
人物です。モリノブ一門は多彩ですね。
両者に関する、文章と写真を別便でお送りしますので、
ご笑覧下さい。 草々 弥吉 拝
投稿: 正樹さんへ | 2015年1月 6日 (火) 08時02分