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  • 650 NHK杯 最後の雄姿。
     村山聖について、彼の師匠森信雄七段は後年 彼について こう語った。「私が村山聖を好きなのは、将棋にひたむきだったことと、病気のことも含めて一切グチを言わなかったことである。無念さや切なさ、遣り切れなさ、口惜しさ..その思いをすべて黙って将棋にぶっつけていたような気がする。」    聖は幼時より腎臓に重い疾患を持っており、生きること自体が闘いであった。いつまで生きられるかという思いを心の片隅に置き、名人を目指して指す彼の将棋は その必死さ において尋常なものではなかった。

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  • 050 地酒「本因坊秀策」
    碁聖 本因坊秀策の生誕地を訪ねて  アルバム(表紙)      上の写真は、村上水軍城
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2014年10月の投稿

2014年10月29日 (水)

-天皇皇后両陛下傘寿記念- 正倉院展を観る。

 

○ 昨日(10月28日)、正倉院展を鑑賞した。本年の出陳

 宝物は、59件で、両陛下のご長寿を寿ぐやうな、華やか

 な宝物が多いやうだ。

 

  囲碁が趣味の小生は、やはり囲碁関連の宝物(2件)に

 興味を持った。

 

 その1.桑木阮咸(くわのきげんかん)

 

  円形の胴を持つ四絃の楽器で、中国製と推定される。阮咸とい名前は


「竹林七賢人」の一人で琵琶の名手とされる阮咸に由来するといはれ

 ゐる。


  胴の中央にある模様は、八弁の赤い花を描き、その中に描いた松や

 竹の下で、囲碁を楽しむ3人の高士が描かれてゐる。(写真下)

20141029_3

 

           部分絵:(近赤外線撮影)クリックすると拡大する。20141029_4

 

 

 その2.緑地錦碁局覆(みどりじにしきのききょくのおほひ)

Photo_2
  六弁花を五の目に配し、間に2羽の綬帯を咥へた鳥を

 表した錦を用ゐ、箱状の覆ひとしてゐる。

 

  明治時代に、碁盤を保護するための覆ひと推定された

 ため、この名称がついた。本来の用途は不明。平面的な

 姿でなく、当初から立体的な形状を留めてゐるのは貴重

 である。  (縦48、横66、高23)

 

 その他1:衲御礼履(のうのごらいり)

 

20141029_6

 

   爪先が反り上がって、先端は二つに分かれてゐる。

 白い厚革を芯材として、表面には赤く染めた牛革が、

 内面には鹿革の白革が用られてゐる。表面に13箇の

 花形の飾りを取付け、装飾を加へてゐる。内側には、

 手のこんだ内布と底敷きがある。


  この履物は、大仏開眼会(かいげんえ:752年4月

 9日)で、聖武天皇が履かれたものと推測されてゐる。

  なほ、履箱が付属、出品されてゐる。

 

 その他2 :鳥獣花背方鏡(ちょうじゅうかはいのほうきょう)

 

20141029_005 

             写真をクリックすると拡大する。 

 

   正倉院に納められた多くの鏡の中で唯一の四角い鏡。

 まず一見して驚くのは、白銅の輝きが今でも保持されて

 ゐる見事な鋳造技術である。鳥の羽根先の繊細さ、葡萄

 (ぶどう)の粒、獅子の形や表情・・。白銅の成分から

 中国・唐で作られたもののやうだが、現在日本の鋳造

 技術でも制作は至難のやうだ。

 

○ 正倉院御物を観て感じ入るのは、それが単なる過去の

 宝物ではなく、1250年以上前の天平人の息遣ひを

 もって迫って来ることである。

 

 今年も、天平時代を身近に感じるひとときを持てて感謝。

 

                     をはり

 

 

 

 

奈良・東大寺境内を散策。

 

 

○ 毎年のこと乍、正倉院展鑑賞の前に東大寺境内

 を散策した。まず、何はともあれ、屋根葺き替へ

 工事が終はり、約3年振りにその外構が公開され

 た正倉院 正倉へ。               

 

         平成26年2月9日見学時。(素屋根取り外し前)Photo
           撮影:平成26年10月28日現在。20141028_00220141028_012

 

 

○ 写真下は、建物東側の屋根。今回、葺き替へられた瓦

 の状況がくっきりと分かる。20141028_00336           屋根瓦配置図。写真の上でクリックすれば拡大する。

 

 

 

○ 正倉院の南方には、木の間越しに大仏殿が見え

 紅葉が美しい。

2014102820141028_015

 

 

○  次に、正倉院の西側にある「転害門」 を見に

 行った。20141028_016

 

 この門は、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦ひ

(1567年)にも焼け残った寺内でも数少ない建物で、天平

時代の伽藍建築を想像できる唯一の遺構とのこと。

 

       写真下:三間一戸八脚門を支へる南西隅角の柱。 20141028_018
   

 

○ 次は、車で移動して、法華堂(三月堂)の不空羂索

 観音立像を見に行った。昨年12月16日以来だ。

  来客が少なく、静かに対座できた。

 

           西日に映える法華堂(上)と二月堂(下)20141028_01920141028_020

 

                          鐘楼20141028_022

 

         中門前の鏡池。紅葉が映え、美しい。20141028_025

 

○ 大仏殿の前に下りてきた。正面から大仏殿を

 覗くと修学旅行生や、外人客で一杯。一時激減

 した中国人客も戻ってきたやうだ。        

 

20141028_024

 

       南大門前も観光客でごった返してゐた。阿形像は工事中。20141028_034
             珍しく 鹿が1頭、吽形像の前にゐた。20141028_032

 

○ 南大門前の土産物店はどこも賑はってゐた。大仏

 饅頭を買った。

  午後4時を過ぎた。そろそろ、奈良国立博物館

 (正倉院展)へ行かう。

 

                    をはり

 

 

2014年10月21日 (火)

大下 弘 選手のカラーポスター

 

○  古いプロ野球選手の話。皆さんは背番号 3 と言へば誰を

 イメージしますか?西鉄黄金期の四番バッター大下弘選手?

 九連覇時代の巨人の四番バッター長嶋茂雄選手?

 

  日本のプロ野球が今日のやうに繁栄を迎へるために、この

 二つの背番号3は大きく貢献しました。

 

  大下が廃墟からの英雄、長嶋が高度経済成長期の英雄と

 して君臨し得たのは観客に共感と感動を与へるその「佇ま

 ひ」にありました。プレー中のみ ならず静止してゐる時で

 すら、その姿は美しかったのです。

 

○ 小生(弥吉)が野球に熱中し始めたのは昭和24年(小学

 5年)でした。川上の赤バット、大下の青バットの時代

 でした。

 

  大下選手を見たのは昭和24年10月11日(火)のこと

 です。福知山市営球場に於ける、東急フライヤーズvs大陽

 ロビンス戦を観に行きました。

  東急の3番打者で守備はレフトの大下選手は子供好きで、

 毎回守備につく都度、フェンスに齧り付いてゐる我々子供の

 間近まで来て、ニコニコ笑ひながら 話しかけてくれました。

  その屈託のない大下選手の笑顔が未だに忘れられません。

 

  生家(福知山)にある当時小生が使ってゐた部屋の片隅

 には、65年後の今も、大下選手の華麗な打撃フォームの

(すっかり くすんだ)カラーポスターが貼ってあります。

        (下の写真)

 

Photo

Photo_2

〇 2階の奥にあるこの和室は、50年以上 誰も使用して

 ゐません。

・                               

                      をはり 

 

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