○ 今年(2016年)の野球殿堂入りが本日(1月18日)発表され、
エキスパート表彰で榎本喜八氏が選出された。過去2年間、該当なし
だったが(榎本氏の獲得投票数は、昨年1位=66票、一昨年2位
=49票で、有効投票者数の75%に達せず)、漸く、榎本喜八選手の
名前が野球殿堂に飾られることとなった。見巧者には、打撃部門に
限って言へば、彼の名前のない野球殿堂など、気の抜けた山葵(わさび)
のやうなものだった。野球殿堂も、少しは、背筋の通った殿堂になった。
○ エキスパート部門の投票結果 (有効得票数110、当選必要数83)
①榎本喜八 83、 ②平松政次 70、 ③星野仙一 69、 ④権藤博 以下略
〇 前エントリー「野球殿堂入りなるか 元毎日オリオンズ榎本喜八選手」
(2015.12.23付)をアップして以来、歳末から年始にかけて、本ブログへの
来訪(閲覧)が随分あった。投票権者の何人かが来訪され、一人でも
投票に影響を受けてゐてくれれば、うれしい限りなのだが・・・。
打撃フォームの見本と称賛された往年の榎本選手。
○ 榎本喜八選手の2年先輩、西鉄ライオンズ黄金時代の主軸打者
豊田泰光選手(昭和28年プロ入り)は、同時代のパ・リーグ打撃争ひ
でライバル関係にあった。
豊田氏は、引退後 TVやラジオ解説をする傍ら、新聞・雑誌等に辛口
の評論コラムを書いて好評だった。その豊田氏が、榎本喜八の没後に
「名人は何も残さず」と題する心のこもった追悼文を日経新聞の連載
コラムに掲載してゐます。榎本喜八の神髄を表はした素晴らしい文章
なので紹介します。
平成24年4月5日付日経新聞コラム チェンジアップ
「名人は何も残さず」
通算1000本安打、2000本安打達成の最年少記録を持って
ゐた榎本喜八(毎日=現ロッテなど)がなくなった。テレビの番組
で張本勲が川上哲治さんと並ぶ偉人として挙げたさうで、これは
もう誰もが認める天才だ。打撃に関し、あれほど純粋で情熱的な人
をほかに知らない。一塁守備についてゐても、気になるのは打撃で
ついつい構へてゐることがあった。
技術において、その右に出る者はゐないのに、私などにもしきり
に意見を求めてくるのだった。
打撃の神様と並ぶ人に、私が何を教へられるといふのか。うかつ
に答へると突っ込まれて、延々と話が続くので参った。わたしの
情熱などは彼の探究心と比べたら10分の1にも満たなかった。
孤高の人は周囲から敬遠されがちな面があった。しかし、榎本の
いくところ、常に少年たちが群がっていた。守備中に打撃のポーズ
を取ってゐるやうな選手は、一緒に守ってゐる仲間には少々迷惑
だったらう。
それだけ夢中になれることのすごさを子供たちだけは知ってゐた。
「児戯に等しい」といふ言葉がある。あまりいい意味では使はれ
ないが、野球こそは堂々たる児戯だ。
その原点に立つ榎本に引かれて、子供たちが野球場に行ったのも
わかる。あれくらい本気で遊べてゐる選手が今、ゐるだらうか。
引退後はもうユニホームを着なかった。コーチとしてあの技術を
伝授しなかったのは残念だったけれど「何も残さない」といふこと
は名人として当然の成り行きだったのかも知れない。
常々私は野球の技術は十人十色、一人一理論だと思ってゐる。
いろいろ学びはしても、最後は自分の体に合った自分だけの技術を
身につけなけれならない。顔が悪いからといって他人の顔を借りら
れないのと同じで、技術も一身専属だ。
名人といはれても、他人に教へられるものではないし、また教は
って覚える技術は本物でない。そんな技術の奥底をうかがひみた人
だからこそ、足跡一つ残さぬやうにして去って行ったのでは
なかったか。
以上、日経コラム チェンジアップより。
○ 野球殿堂入りの対象者(候補者)選出基準や、表彰者選挙基準には
不可解な点が多い。何故こんな選手が候補者に挙がってゐるのか、如何
してこの選手がもっと早く選ばれないのかとゐった疑問も多い。
当面の問題は、名球会復帰も果たした 江夏豊選手は候補者にも名前
が挙がってゐないが、彼が候補者に選考される環境を選考委員が如何
したら整へられるかだらう。
投手部門に限って言へば、江夏豊の名前のない野球殿堂など気の抜
けたビールに過ぎないのだ。野球を愛好する日本人なら、江夏豊選手が
活躍した’67~’84年の18年間に、彼によって齎された血沸き肉躍る
試合のシチュエーション・野球の醍醐味を決して忘れてゐないだらうから..。
をはり
〇 3年前の(2012年)3月14日・・・。プロ野球で、神の領域
に限りなく 近づいた男が逝くなった。 2度の首位打者に輝き
生涯安打 2314本を叩出した伝説化せる強打者、元毎日オリ
オンズ榎本喜八選手だった。
享年75才、後継球団(千葉ロッテマリーンズ)が訃報を公表し
たのは半月後だった。偶然乍、没年月日と生涯安打の数字が一
致してをり運命的だ。
まずは、現役時代の打撃フォーム(写真)を篤とご覧あれ。
偉大な打者 榎本喜八。
その本質は、只管に野球道を追ひ求めた孤高の、そして
努力の、しかし不世出の天才打者だった。気障な言ひ回し
をすれば、彼は究極の打撃を求めて未知の曠野を彷徨ひ
歩いた求道者だった。
〇 略歴(1936.12.5~2012.3.14)東京・中野区出身、早実高校卒
’55年に毎日オリオンズ入団。プロ入り時点で、既にハイレベルの打撃術
を身につけてゐるとの 高い評価で、評判に違はず新人王を獲得。打撃
の特徴は、バットを長く持ってフルスィングする、抜群の選球眼を持ち、
好球必打ができ、三振が少ない、小柄だが、長打力がある、ボールの
真芯に当たるのでライナー性の強烈な打球が多い、軸が全くぶれない
美しい打撃フォーム..etc.
現役時代から人と交はらず、内向的で引退後、野球界との付き合ひを
一切絶った。名球会には不参加を貫いた。
≪主な記録≫
初出場(’55.3.26) 最終出場(’72.10.4)
首位打者 2回(’60、’66) 最高出塁率 2回(’60、’66)
最多安打 4回(’60~’62、’66) 新人王 (’55)
ベストナイン 9回
オールスターゲーム MVP 1回(’66)
1000本安打 24才9ヶ月での達成は、史上最年少記録。
2000本安打 31才7か月での達成は、NPB史上最年少記録。
〇 榎本は早実の6年先輩 荒川博の一番弟子だった(二番
弟子は王貞治)。荒川の紹介で合気道を学び、’60年には
首位打者を獲得、’62年12月には居合(いあひ)を教はり
始め、翌年7月には後述するやうな「神の域」に達することに
なった。
〇 如何に彼の打撃が凄味のあるものだったか。
同時代の一流野球人の感想から推測してみる。
川上=「打撃の神様」の称号は自分でなく榎本が最も
相応しい。
野村=あんな恐ろしい打者には後にも先にもお目に
かかったことはない。
張本=首位打者を7回獲ったが、一騎打ちで争ひ負けた
のは榎本さん只一人だった。
西本監督=一番正確な打者は誰だと聞かれたら躊躇なく
榎本と言ふ。
荒川=お客さんを喜ばせるプレーができて初めて「芸」の
域に達する。まず「技」があって、その上に「術」が
ある。「芸」はその上なんだ。「芸」の域に達した
選手には川上さん、藤村さん、長嶋、王、金田(正)
もさうだ。
「芸」の上が「道」を極めるだ。野球でそれに挑戦
したのは榎本だけだった。
写真下:昭和35年初の首位打者獲得(中)、MVP山内(右)、最多勝利小野(左)
写真下:昭和43年 2000本安打達成の記念ボールを手にニッコリ。
〇 神の域への道。
榎本の師匠・荒川博は、合気道にうちこんで「合気打法」を
開発しかかってゐた。その「荒川道場」に入門した若い頃の
榎本について、荒川は「誠に真面目な男で、求道心の固まり
のやうなところがあった。私の家に来て、私が『もうよい』と
言ふまで何百回もバットの素振りをし、姿勢、間の取り方、
足腰の位置などを徹底的に研究する毎日だった。
昼間から庭で素振りをしてゐた榎本のことをつい忘れて
しまひ、深夜に思ひ出して庭をみると榎本はまだバットを
振ってゐたこともあった」と。
〇 野球殿堂入りについて。
「野球殿堂」は、プロ野球などで顕著な活躍をした選手や
監督・コーチまたは、野球の発展に大きく寄与した人物に対
して、その功績を称へ、顕彰するため創設されたものである。
現在、野球殿堂入りを果たした方々を一覧して、何故、
榎本喜八の名がそこにないのか不思議でならない。
野球殿堂は、殿堂入りを果たすに十分且つ顕著な活躍
をし乍、あまりにも真面目で純粋に野球に取り組んだが為、
人との交はり方を身につけ得なかった古い型の職業野球人
を排除するのか。
〇 榎本は、冒頭に記した様に、2012年3月、75歳で誰
にも知られず静かに逝去した。それまで忘れ去られ、候補に
も挙がったことのない名前が、急にスポットを浴び、201
4年に突如49票の支持を得た。翌2015年の野球殿堂
入り選考で競技者「エキスパート表彰候補」19選手の中で、
トップ投票を得たが、有効投票の75%(81票)に達せず、
外れてしまった。
榎本は、2016年もエキスパート表彰候補者13名の
トップに名前が挙がってゐるが、既に引退後40余年を経て
をり、投票権者で榎本の現役時代の姿を見たこともない人が
増えてゐる現状、2016年1月18日は、榎本喜八選手の
野球殿堂入りの最後の機会になるであらうから、是非とも、
全員、5名連記の一人に 榎本喜八 と書いて欲しい。
〇 天才と更なるあくなき探究心が生み出した打撃術で、多く
のファンと同時代の選手達に鮮烈な印象を与へ続けた
「榎本喜八」の名前と像を野球殿堂にどうしても残したい。
をはり
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○ 古いプロ野球選手の話。皆さんは背番号 3 と言へば誰を
イメージしますか?西鉄黄金期の四番バッター大下弘選手?
九連覇時代の巨人の四番バッター長嶋茂雄選手?
日本のプロ野球が今日のやうに繁栄を迎へるために、この
二つの背番号3は大きく貢献しました。
大下が廃墟からの英雄、長嶋が高度経済成長期の英雄と
して君臨し得たのは観客に共感と感動を与へるその「佇ま
ひ」にありました。プレー中のみ ならず静止してゐる時で
すら、その姿は美しかったのです。
・○ 小生(弥吉)が野球に熱中し始めたのは昭和24年(小学
5年)でした。川上の赤バット、大下の青バットの時代
でした。
大下選手を見たのは昭和24年10月11日(火)のこと
です。福知山市営球場に於ける、東急フライヤーズvs大陽
ロビンス戦を観に行きました。
東急の3番打者で守備はレフトの大下選手は子供好きで、
毎回守備につく都度、フェンスに齧り付いてゐる我々子供の
間近まで来て、ニコニコ笑ひながら 話しかけてくれました。
その屈託のない大下選手の笑顔が未だに忘れられません。
生家(福知山)にある当時小生が使ってゐた部屋の片隅
には、65年後の今も、大下選手の華麗な打撃フォームの
(すっかり くすんだ)カラーポスターが貼ってあります。
(下の写真)
〇 2階の奥にあるこの和室は、50年以上 誰も使用して
ゐません。
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をはり
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〇 9月1日大相撲第45代横綱初代若乃花逝去。82歳。
〇 写真下:新横綱若乃花(太刀持 琴ヶ浜)華やかな栃若時代
〇 若乃花くらいその相撲振りを多彩に表現された力士が居た
だらうか。
曰“土俵の鬼” 曰“異能力士”、曰“かかとに目がある”
曰“ 足の裏に目がある” 、曰“ 仏壇返しの荒技” 曰“二枚
腰”、曰 “膝に遊び(ゆるみ)がある”、
曰“小さな大力士” ets...。
〇 若乃花の相撲の特徴
1.どんな大きな相手であっても頭をつけずガップリ四つに
組む。
(入幕78㎏,最重105㎏)
2.技の切れがよく、強烈。(それを、彼は“投げは八百長に
打たない”と表現してゐる)いい加減な打ち方をせず、決ま
らない時は自分が負ける時といふ位徹底してゐた。
だから良く決まったし、相手は土俵にたたきつけられた。
3.うっちゃり腰がない。(決まり手「うっちゃり」で勝った
ことは一度もない)
土俵際まで寄られても左右に逃げたり うっちゃらうとし
ない。強力な足腰で残し堂々と寄り返す。彼の両足の指は
砂に食い込むやう鉤形に曲がってゐた。
4.土俵上で転がされて負けることが殆どない。(足腰が強靭
で、投げを食はない)
5.相撲振りがきれい(清澄)で潔く屈託がない。立ち渋りが
殆どなく、さわやか。
6.無口。自分の相撲について多くの説明・批評をしない。
取組後、記者から訊かれても「見たとほり」と一言述べる
のみだった。
〇 もう こんな 凄くて人気のある力士は出ない。
1.上述(6項目)の全てを満たす「けれん味」のない力士
はもう出現不可能だ。
2.荒稽古で鍛へた鋼(はがね)の様な一種凄みのある体を
持つ力士の出現はもう期待し得ないこと。若乃花の荒稽古
は生きるか死ぬかの様な激しいもので、思はず目を背けた
くなる位の凄みがあった。
3.その鋼鉄の様に鍛へた体から繰り出される絢爛・華麗な
技に相撲ファンは酔った。
若乃花が左四つ右上手を取ればあの容赦のない土俵にた
たきつける様な上手投げがいつ出るか、右四つ左上手を取
れば右からの呼び戻しの荒技がいつ出るか館内は熱狂し大
歓声と拍手の渦で騒然となった。
こんなにも相撲ファンを興奮させる魅力を持った力士は
もう出現不可能だ。
4.栃錦と並んで若乃花が昭和の名横綱と呼ばれる所以は
なにか。
彼以降、彼以上に数字の上での成績を残した力士は
大鵬をはじめとして5指に余る。しかし、彼以上に館
内を大歓声で沸かせた力士を知らない。若乃花は負け
ない相撲を取った力士ではない。要は勝ち方の質の問
題なのだ。彼への大歓声は鍛えに鍛えた小さな体で、
大きな相撲を取り相撲ファンに夢を与へ続けた彼への
オマージュだったのだ。
〇 すり足の芸術
1.栃若時代の終焉となる昭和35年春場所千秋楽に於ける
14戦全勝同士の対決は史上初といふことで異常な盛り上
がりをみせた。
2.栃はいくつかの連続わざの中から勝利を導きだすのに
対し、若は一発必殺に運命を賭ける。まさに“名人”と
“異能”の最後の対決だった。もう50年以上経ってしまっ
たが、その攻防は時に応じニュースや特集番組等で報じら
れてきた。
3.ところがこの取組の一部始終が流されることはまずない。
従って両者が攻防の合ひ間に見せる“すり足”の妙(みょう)
に気づかれ、記憶されてゐる方は余程の見巧者だけだらう
と思ふ。
4.技を極めた両者ががっぷり左四つに組んだら、そう簡単
に業が決まるものではない。数度の攻防の末、相手の技を
警戒して土俵中央に戻らうする両者の“すり足”がなんとも
素晴しいのだ。土俵上の芸術にまで昇華してゐると言って
も過言ではない。こんなに美しい“すり足”は今に至るも見
たことがない。
○ 最後に、全盛時の豪快・華麗な土俵を写真でどうぞ。
〇 S35春千秋楽・史上初の横綱14戦全勝同士の決戦。
ドーと立って左四つ。両者うわ手、した手を十分に取る。
互ひに若の寄り身、栃の吊り身、栃土俵中央に寄り返し
て内掛け。その後両者 技を出し合ひ、また数呼吸。長期
戦の模様。栃錦(右)は、長引いては不利と、左差手を
抜き若乃花(左)の右上手を切りにいった。その機を逃さ
ず、若は怒涛の寄り身で栃を白房下に寄り切った。
仕切りに入る貫禄十分の両力士。
(写真画報:栃若時代より)
立ち上がった瞬間(左:栃錦、 右:若乃花)
差し手の攻防
(検査役は、左:元横綱双葉山、右:同 吉葉山)
栃錦(右)、差し手をぬいて若乃花のうわ手を
をはり
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