令和3年1月2日(土)
〇 京都・東山 霊山観音の傍にある千歳碑(旧陸軍歩兵
第60連隊の慰霊碑)に初詣した。
写真下:殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を
祈念するため、昭和30年6月に建立された霊山観音。
写真下:旧陸軍第60連隊諸霊の偉勲を顕彰しその冥福を
祈るため、昭和42年4月建立された慰霊碑 「千歳輝」
碑。
〇 小生(82歳)の叔父は、大東亜戦争敗戦の約1年前
・昭和19年7月25日にビルマ・インパール作戦の戦
闘で戦傷死した。22歳の若さだった。
〇 亡き叔父の実母(小生の祖母)は、終生、我が子の
戦死を信じなかった。遺骨一つ還って来ないのに、腹を
痛めた我が子22歳の死を 村役場からの知らせだけで信じ
られやうか。
〇 彼が出征したのは小生が5歳になる年で、生活を共に
した記憶は残ってゐない。しかし、彼が小生の人生に与
へた影響は計り知れない。(詳細は、本ブログ令和2年
9月7日付「大東亜戦争戦死者への慰霊」をご参照賜度)
然るに、叔父がインパールで戦病死した以外、予備知識
のない小生だった。
〇 歳を経るに従って彼のことをもっと知りたいとの思ひ
が嵩じてきた。そして、我が人生に多大な影響を与へて
くれた亡き叔父に感謝の念を伝へる方途はないかと思索
した。
〇 そして京都府庁やネット等での調査により、昨年8月、
やっと第60連隊の霊が祀ってある標記慰霊碑を知り得
たのだった。
〇 昨年9月に初めてお参りして、碑を護持されてゐる千歳
碑護持会を知り、その活動(年間行事)の説明を受けた。
〇 今日(1月2日)は、千歳碑護持会による年間行事
「千歳碑初詣の集い」があった。参詣者の中で、叔父と
同時期に出征し 叔父とは同一部隊で、戦死が一日違いだと
いふ戦友のご遺族とも出逢った。
〇 「千歳輝」碑には、後年インパールの戦地で集められた
石が聖石として戦友の御霊と倶に安置されてゐると聞いた。
参詣は3度目だが叔父を身近に感じるところだ。長生きして
詣で、亡き叔父に感謝を続けたい。
をはり
令和2年9月7日(月)
〇 小生(82才)の叔父(大正11年1月生まれ)は、昭和19年
7月ビルマで戦死した。満22才だった。丹波の山奥にある尋
常小学校高等科2年卒業後、大手製糸会社尼崎工場で6年
余勤務。赤紙が来たのは昭和17年12月、20才。働き盛り
の青年だった。
〇 その叔父達戦没者の慰霊碑が京都・霊山観音にあることを
知り、昨日(9月6日)、初めて霊前にお参りをさせて
もらった。
写真下:京都・東山の麓にある霊山観音・本院
写真下:歩兵60連隊の慰霊碑 「千歳輝」
昭和42年4月建立。
〇 叔父が戦死したのは、小生が6才になる1ヶ月前。殆ど
生活の記憶は残ってゐないのだが、カメラを持ってゐた
彼が生前撮ってくれたスナップ写真、月刊雑誌、書籍、
レコード類(歌謡曲、浪曲ほか)が大量に残って
ゐたのだ。
〇 小生は幼年時から小学校時代に、これを徹底的に読み、
観、聴きしたので、かなり ませた(大人びた)子供に
成長していったのだ。
〇 小生がその後の人生において、学校では習はない諸々
の知識・教養を豊富に持ち得たのは、幼年時に得た知識
が嚆矢となってゐるのだ。
〇 叔父の実母(小生の祖母)は、彼の戦死を信じ
なかった。戦後、戦没者慰霊祭には参加しなかった。
昭和42年4月に死去するまで、毎年の慰霊祭開催
通知は(弁当引換券と共に)タンスの奥に終はれた
儘だった。後年(20年程前)、タンスにそれを見て、
小生は祖母の思ひに涙を禁じ得なかった。
〇 亡き叔父は、初めて、自分の血の通った甥にお参り
してもらひ、喜んでくれただらうか。小生は、叔父へ
感謝の念を伝へ得て気が休まった。
をはり
令和2年3月30日
〇 新型コロナウィルスの世界的拡散が急で、各界の著名人まで、感染
入院や死亡の報が届き始めた。感染・死者急増中の米・ニューヨーク市
の現状を考慮すると、日本でも2、3週間以内に大都市に於いて、感染
爆発する危険性を孕んでいる。
〇 感染蔓延が各所に及んでいるが、感染経路が特定できない感染者が
増加しているので、要注意である。日本人各人が、毎日の生活の中で、
感染・死と向き合っていることを牢記し、節度ある行動に徹すべきである。
〇 ウィルスが治まるまでは、大勢集まる行事を行わない、大勢集まる
処へ近寄らないことが肝要である。
〇 時、将に花見の季節。万朶の櫻花の下、酒気を帯びて蹣跚と歩き度き
御仁もあろうが、以下の写真を眺め、ぐっと自重の日々を送って欲しい。
もっと、写真を見たい方は、本ブログ左欄のカテゴリー(花見・PLなど)
をご覧下さい。
おわり
令和2年1月28日
〇 約9年前の2月、自宅の掃出しの大きなガラス戸にメジロ
がぶつかり、一時気絶して動けなくなったことがあった。
〇 今日は、暖かい午後、自宅前で近所のお知り合ひと話を
してゐると、横にあるガレージの自家用車の窓に何か当た
る物音がした。
何だらうと覗いて見ると、小さなメジロが白い腹毛を上
にして踠(もが)いてゐるではないか。両足を鈍く動かし、
両目を開けたり閉じたりしてゐる。直ぐに動かなくなって
しまった。
〇 以前の経験では、10分位で正気に戻ったので不安は
なかった。案の定、5分位で起き上がり、暫くすると
左右の様子を窺がふやうに首を動かしだした。
(写真下 6枚 12時33分~12:37)
起き上がった直後のメジロ
ここは何処だらう?
飛び立つ寸前の様子(下)
〇 事故が起こってから、10分位で飛べる力が戻って
きたのだ。暫く休息ののち、冬枯れの雑木林に向かって
飛び立っていった。
小さくあまりにも可愛いメジロさんの姿を皆さんも
ご覧あれ。
をはり
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○ ひと月に一度、家人と共に、10数km離れた狭山池近くのショッピング
センターへ買ひ物に行く。
○ 昨日(3月26日)、大阪市で桜の開花発表があり、穏やかな日和だった
ので家人が買い物をしてゐる時間を利用して近くの狭山池へ散歩に
出掛けた。
○ 狭山池は、7世紀前半に築造された日本最古のダム式ため池で、
平成の大改修により、広い堤に沿って周囲は桜の並木となってゐる。
○ 四季を通じて眺めが素晴らしく、周囲約2.85kmの土手道は恰好の
散歩道(ジョギング道)として行き交ふ人が絶えない。
○ 広い堤に上がってみると、丁度、桜の花が咲き初めてをり、若木の中
には、もう七分咲きの樹もあった。
池塘にある人工オブジェ。遠くの桜並木も今にも咲きだしさうな色。
をはり
写真の上でクリックすると一杯に拡大する。
○ それは、大和平野のほぼ中央にある馬見丘陵(うまみ
きゅうりょう)にあった。古墳が集中してゐる丘陵地を
うまく利用して、豊かな自然を残しながら四季それぞれの
趣を満喫できるやうに造られた都市公園だった。
○ 大阪・太子町の自宅より車で30分のところに、こんな
に気分良く散歩できる公園があることを知らなかった。何
だか、バンカーのないゴルフ場を散歩してゐる気分になった。
○ 2月下旬といふ季節柄、クヌギ、コナラ、アベマキなど
の高木は落葉し、寒々とした風景だが、散歩道沿ひの桜並木
の梢にはもう春の訪れを感じさせる膨らみがあった。園内は
四季を通じて美しい花木が一杯植ゑてあり、百花繚乱の4、
5、6月頃は、そのあざやかな色彩に見入り思はず散歩する
足が止ってしまふのではないかと思ふ。
これから、ひと月に1度は散歩に来やうと思ふ。折々の花
を愛でる為にも。
をはり
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